東海大学体育会 柔道部 tokai university judo clubのメンバー紹介です。役員、スタッフのご紹介をしています。 生年月日: 1993年5月30日: 階級: 60kg級: 段位: 五段: 出身大学: 東海大学: 座右の銘: 信念: 得意技: 肩車: 主な戦績: 2010年 インターハイ 優勝(60kg級); 2010年 全国高等学校柔道選手権 優勝(60kg級); 2010年 全日本ジュニア柔道体重別選手権 優勝(60kg級); 2010年 プロヴァンスジュニア 優勝(60kg級) ~神奈川を制するものは全国を制す~ かつて、このように恐れられた神奈川の高校野球ですが、現在は、それほどでもないなどと言われています。 こんな、批判を吹き飛ばすため、過去における神奈川球児の”輝かしい戦績”をとりまとめてみました。 施設の建設から数十年経過する1号館など、近年は老朽化が著しく進行している施設があり、それに伴う改修工事が夏休みの授業の行われていない間に進められてきたが、2012年の空調設備の全面取り替えは夏休み期間では終了しないため、7月から9月に掛けて行われている。 東海大学付属相模高等学校・中等部(とうかいだいがくふぞくさがみこうとうがっこう・ちゅうとうぶ)は、神奈川県 相模原市 南区に所在する東海大学 付属 中高一貫校。. しかし、各学年12クラスから13クラス(1クラス約50名)というマンモス校であるが、ぎりぎりのキャパシティーである。 その他にも、剣道部やテニス部など、全国レベルの部活が数多くある。 施設は充実しており、ナイター完備の野球場、テニスコートをはじめ、大規模な体育館、柔道場などのスポーツ施設が整っている。 現役時代の階級は95kg超級。小学5年で柔道を始める。東海大相模高から東海大学を経て、同大大学院、ALSOKで活躍した。現役引退後は指導者に転身し、2008年に東海大学柔道部監督に就任すると、2014年まで前人未到の全日本学生優勝大会7連覇に導いた。 神奈川県の東海大相模高では、原貢監督や大八木治コーチをはじめ、原辰徳、津末英明、岡部憲章らのちにプロ野球選手になる同期と共に、左腕エースとして夏の甲子園に3回、春の甲子園に1回出場している。. その他にも、大ホール、小ホールといった文化の面でも施設は充実しており、数多くの部活動が活用している。 東海大学付属相模高等学校・中等部のオフィシャルサイトです。高校案内、受験生向けの入学案内、保護者・卒業生・在校生向けコンテンツなど、相模高校に関する情報をご覧頂けます。 村中 秀人(むらなか ひでと、1958年[1]5月8日[2] ‐ )は、長崎県佐世保市出身[2]の元社会人野球の選手(投手→外野手)。高校野球監督。, 神奈川県の東海大相模高では、原貢監督や大八木治コーチをはじめ、原辰徳、津末英明、岡部憲章らのちにプロ野球選手になる同期と共に、左腕エースとして夏の甲子園に3回、春の甲子園に1回出場している。, 1年生時の1974年夏の選手権は準々決勝に進み鹿児島実と対戦、伊東義喜をリリーフして定岡正二と投げ合うが、延長15回敗退[3]。1975年の春の選抜では決勝に進出。高知高の山岡利則(近大ー大昭和製紙)との投手戦となるが、延長13回表、杉村繁に決勝となる三塁打を喫するなど5点を失い準優勝にとどまる[4]。同年夏の選手権は準々決勝で上尾高に敗退[3]。1976年夏の選手権は2回戦で小山高に敗れる[3]。, 高校卒業後は東海大学に進学し、硬式野球部に入部。首都大学野球リーグでは在学中7回の優勝を飾る。1年上に木下智裕、1年下に井辺康二と好投手がおり、あまり登板機会がなかったが、定評のある打撃を活かし外野手も兼ねて活躍する。大学卒業後は、社会人野球のプリンスホテルに進む[1]。1984年の都市対抗では1回戦で住友金属のエース高橋修二から本塁打を放つ。翌1985年の都市対抗でも1回戦で川崎製鉄神戸の藤高俊彦に本塁打を浴びせるなど中軸打者として活躍、主将もつとめた。, 現役引退後の1988年(昭和63年)より、母校の東海大相模高の野球部監督に就任し、春の甲子園に2回出場。1992年(平成4年)の第64回大会では準優勝という成績を収めている。しかし夏の甲子園は横浜高校や桐蔭学園の壁に阻まれ出場機会はなかった。, 1999年(平成11年)に、東海大甲府高の野球部監督に就任。大八木治監督退任後は低迷期に喘いでいた野球部の再建に乗り出し、その結果4年後の2003年(平成15年)の夏に監督としては悲願の初となる甲子園出場を果たす。翌2004年(平成16年)に2年連続となる夏の甲子園出場を果たすと打線が爆発。特に3回戦では聖光学院高校相手に6回終了時点で2-8と大量リードを許すも7回に4点、そして9回にサヨナラ3ランで逆転勝利(9-8)を収めるなどし、準決勝でこの大会で優勝した駒大苫小牧に8-10で敗れるが山梨県勢として2度目となるベスト4という成績を残した。, その後は、山梨学院大附や日本航空高校、山梨県内の公立高校によって甲子園出場を阻まれていたが2012年(平成24年)に8年ぶりの夏の甲子園を果たすと2度目となるベスト4という成績を残した。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=村中秀人&oldid=79858407, 東海大相模・東海大学で一緒にプレーした原辰徳とは現在も交友があり、2012年の夏の甲子園に出場した際は期間中, 2004年以来甲子園から遠ざかっていた東海大甲府であるが、2011年冬に村中はキャンプを復活させると同時に全選手に3~8キロの増量を課し、2リットル入るタッバーに詰め込んだご飯を朝夜に食べさせた。その結果選手の体格は見違えるほどになり、その翌年8年ぶりの夏の甲子園出場およびベスト4を果たしている. 近年では、文武両道をモットーに勉学と部活動の両面から学校改革が進んでいる。, 2006年に1号館の改修工事を行い、手洗い場と生徒用玄関は、自動照明となり、手洗い場については自動水洗となった。 中等部・高等部共に自動冷水機や自動・食券販売機などが備わっている。食堂・売店は中等部と高等学校で共有している。, 春・夏共に甲子園で優勝経験がある。1965年に福岡の三池工業を夏の甲子園初出場初優勝に導いた原貢を監督に招き、1970年の第52回全国高等学校野球選手権大会で優勝。1974年には息子辰徳との「親子鷹」で全国大会に出場し、ベスト8に進出して活躍した。なお、この56回大会は金属バットの使用が導入された大会であった。2000年の春のセンバツでは筑川利希也(現・Honda硬式野球部コーチ)を擁して初優勝、紫紺の大旗も手にした。創部当初は夏の甲子園常連校であったが、近年では春のセンバツの出場が多く、夏の選手権神奈川大会では毎年のように上位進出している一方、あと一歩のところで優勝を逃し1978年から2010年までの33年間夏の甲子園に出場できなかった。そのことから「神奈川高校野球の七不思議」の一つとも言われていた。大田泰示を擁した2006年から2008年にかけては3年連続で神奈川大会(2008年は記念大会のため神奈川県は南北分割開催。北神奈川大会での出場)の決勝で敗退。しかし、2010年は投の一二三慎太、打の大城卓三・田中俊太らを擁し33年ぶりに夏の甲子園に出場、甲子園では3回目の準優勝となった。[3] 経歴・人物. 第42回全国高等学校柔道選手権大会(3月21日~22日・alsokぐんまアリーナ)の神奈川県予選が25日、神奈川県立武道館(横浜市)で行われ、5人制勝ち抜き制で行われる男子団体戦は東海大相模高が優勝した。同校の優勝は5年ぶり24度目。 決勝は桐蔭学園高と対戦。 近年、サッカー部も全国レベルの部活動になりつつある。, 文化部では全国大会出場経験をもつ吹奏楽部は、部員数が学内で一番多く活発的な活動を行っている。 東京・日本武道館で行われる「全日本学生柔道優勝大会」(全日本学生優勝大会)。66回の歴史を誇る男子は、東海大学が優勝候補の大本命と目されている。山下泰裕、井上康生らオリンピックの金メダリストを多数輩出した名門中の名門である。先鋒、次鋒、五将、中堅、三将、副将、大将の順に戦い、多くの得点(勝ち1点、引き分け0点)を獲得した方が勝者となる大会において、東海大のキーマンはウルフ・アロン(4年)だ。100kg級で世界選手権日本代表にも選ばれているウルフは今シーズンから主将を任され、大黒柱としてチームを牽引する。, ウルフ: そうですね。選ばれた時には“しっかりしなくてはダメだな”と気が引き締まりました。, ウルフ: 僕が1年生の時に主将を務めていた王子谷(剛志)先輩です。王子谷先輩の代では全日本学生優勝大会と全日本学生柔道体重別団体優勝大会の団体戦2冠を達成しました。, ウルフ: 誰にでも分け隔てなく接してくれる方でした。僕も誰とでも話すようにして、部員全員とコミュニケーションを取るようにしています。, ウルフ: 他愛もない会話もそうですが、注意する時はきちんと注意する。メリハリはしっかりした方がいいと思っています。, ウルフ: 一色ではない感じはしますね。とはいえ仲が悪いというわけでもありません。いろいろなタイプの選手がいて、ひとつにまとまっているという気がします。, ウルフ: 監督から勝負の仕方をミーティングでしっかり教えてもらっています。他の大学と比べても試合運びの部分で巧さを感じます。, ――さて、東京大会にはケガのため大事をとって出場しませんでしたが、外からチームを見た印象はいかがでしたか?, ウルフ: 全体的に見ても失点が1つ。隙のないチームになってきているなと感じました。, ウルフ: 全員がしっかり仕事すれば全日本学生優勝大会も優勝できるチームだと思います。, ウルフ: 僕は必ず「一本」をとらなければいけない立場です。「一本」を取るだけだと思っています。, ウルフ: 個人戦は自分の戦いですが、団体戦は部員全員の戦いになります。プレッシャーもすごくありますが、やりがいという部分もあります。, ――これまで全日本学生優勝大会は1年生の時から出場されています。一番印象に残った大会は?, ウルフ: やはり2年時の大会(2015年)です。決勝の代表戦に僕が出場して、筑波大学に敗れたことが一番です。団体戦の難しさを味わいました。もう2度とああいう思いはしたくないです。, ――筑波大との決勝は7人での戦いを終え、2-2のタイスコアでした。代表戦はウルフ選手と筑波大の永瀬貴規選手(当時4年)との対戦です。「指導」の差で敗れ、優勝を逃しました。代表戦での内容に不満が?, ウルフ: そうですね。内容としても心技体が充実していなかったと思っています。心のどこかで代表戦までいかないという考えがありました。心の準備ができていなかった……。, ――永瀬選手は、のちのリオデジャネイロオリンピック銅メダリストではありますが、ウルフ選手にとっては2階級下(81kg級)です。, ウルフ: “負けるかもしれない”という不安はありませんでしたが、決して油断していたわけではないです。それでも心のどこかに隙があったのかもしれません。, ウルフ: そうですね。あの日、負けてから個人戦でも結果を残せています。緊張する舞台を経験できたことで、他の試合では慌てずに落ち着いて試合ができるようになったんじゃないかと思います。, ウルフ: ひとつひとつの稽古やトレーニングを何も考えずに行うのではなく、しっかりと目的を持って取り組むようになりました。例えば背中を鍛える時に柔道でどのように使うかをイメージしながらトレーニングしています。そのことによって、以前よりも柔道にうまくつなげられているのかなと思います。, 東海大の上水研一朗監督は就任10年目。過去9年の全日本学生優勝大会で8度の優勝に導いている。唯一優勝を逃した2年前も準優勝。すべて決勝へとコマを進めているのだ。ベンチで戦況を見つめる姿も、冷静沈着である。智将の指導論に迫る――。, ――先日の東京学生柔道優勝大会後は失点の少なさを評価されていました。改めて大会を振り返ってください。, 上水研一朗: あまり細かい準備をせずに東京大会に臨みました。細かいミスや対応できないことが出てくると予想しましたが、思った以上に選手たちは落ち着いて戦えていました。それが失点の少なさにつながったんだと思います。, 上水: 完成度は比較的高いチームです。今年で監督に就いて10年目ですが、現時点での完成度は一番高いかもしれません。, 上水: そうですね。今年は1年生がメンバーに入っていませんから、2年生以上でチームの約束事の共有はできています。, ――全日本学生優勝大会では連覇を狙っていくことになります。優勝を義務付けられている東海大の監督を務めて10年目になりますが、プレッシャーはありますか?, 上水: 僕は2年前の8連覇を目指したときの経験があります。それと比べると、今回は“負けられない戦い”という大きなプレッシャーがかかってはいないんですよね。むしろ1回負けたことで見えなかった部分が見えるようになった。それまでは僕自身、肩肘を張ってやっていたところを少し余裕を持って指導できるようになりました。, 上水: そうですね。僕自身のキャパシティがなかった。監督1年目から7連覇ですから、負けた経験がなかったんです。そこが怖さに繋がっていて、年を追うごとにどんどん膨らんでいきました。“いずれは負ける”と思っていても、“負けてはいけない”ということにとらわれていた自分がいたのかなと。正直、8連覇を狙っていた時もやりようはもっとあったような気がしますが、僕がいっぱいいっぱいでした。だから閃かなかったんですね。, 上水: 体重別団体では順番が決まっていますが、全日本学生優勝大会は読み合いが出てきます。用兵は監督の腕の見せ所ですね。, 上水: 準備以外何物でもないですね。選手に口酸っぱく言っているのは「勝ったつもりでいるなよ」と。力のある選手が意識高く持って、稽古に取り組んでいるから優勝できる。それは決してイコールではないんです。それでも勝てない時はあります。不確定要素は誰にも分からない。力がある時の方が危ないという危機感を共有していることの方が、むしろ大事です。例えば大会当日が自分の生涯で最低のパフォーマンスの日かもしれない。それでも勝てる準備さえしておけば負ける確率は下がると思います。, ――「最悪を想定する」という考え方は、指導者になったばかりの頃から持っていましたか?, 上水: 僕が監督になる前に、監督になるための準備を多方面から考えました。僕は井上康生先生や歴代の監督方と比べたら競技実績はなかった。批判的な声も受けながらも結果を出していくためにはどうすべきかを考えて、いろいろな分野の本を読みました。その中でも、最高の戦い方はほとんどない。運だけでもない。準備は最高の戦いをするためのものよりも、最悪負けないという想定の方が、勝率が良いと自分の中で結論付けました。負けないことが大事で、勝つことにとらわれてしまうと隙ができるなと。今はそれを選手に伝えるようにしています。, 上水: そうですね。最悪な展開をシミュレーションしていると、それが現実になるんです。僕の現役時代を含めても、最高の戦いの方が少ない。むしろ最悪の戦いはたくさんあるんです。, 上水: 最初は日々、試行錯誤でした。3、4年目から少しずつ成功例が出るようになってきたんです。僕の指導がはまり、成果を出す選手が出てきたんです。, ――「監督になりたての頃はおどおどしていた」という記事もあります。最初の方は自信がなかった?, 上水: それはおどおどしましたよ。むしろそういった部分がある方が大事だったんじゃないかなと思います。怖さを知りながら指導をしていたということです。怖さを知らずに“オレの指導が正しい”“オレに任せておけば大丈夫”と思っていたら、成果は出なかったような気がします。, 上水: 部員に合った指導を考えることです。現在、男子は119名いますが119通りを考えなければいけません。大変ではありますが、僕自身も勉強しないといけないし成長しないといけない。, 上水: 自分が理想とする柔道ができる子は120人近くいても2、3人だけです。それ以外は全部違う。その違う柔道の中でいかにその子の適性を見つけていくか。それが僕の大きなテーマでそこからチャンピオンを、目標を達成する選手をつくっていく。しかし、チャンピオンになれるのは一握りです。なれなかったとしても、その課程こそが財産になる。それを社会に出て生かしてほしい。その適材適所の指導法は、僕が目指すべきところだと思うんです。いろいろな形のチャンピオンをつくっていきたいです。, 1996年2月25日、東京都生まれ。階級は100kg級。6歳の時に祖父の勧めで講道館にある春日クラブで柔道を始める。東海大浦安高時代は高校選手権、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)などでタイトルを獲得した。東海大入学後は世界ジュニアで3位に入ると、講道館杯は2年時から2連覇中。全日本選抜柔道体重別選手権大会は3年時から2年連続で制した。団体戦も1年時から主力として活躍し、全日本学生優勝大会2度の優勝に貢献。身長181cm。得意技は内股。, 1974年6月7日、熊本県生まれ。現役時代の階級は95kg超級。小学5年で柔道を始める。東海大相模高から東海大学を経て、同大大学院、ALSOKで活躍した。現役引退後は指導者に転身し、2008年に東海大学柔道部監督に就任すると、2014年まで前人未到の全日本学生優勝大会7連覇に導いた。一昨年に連覇は途切れたものの、昨年優勝旗を奪還した。, BS11では「全日本学生柔道優勝大会」の模様を6月25日(日)20時から放送します。男子は今回取り上げた東海大の他にも、筑波大学、国士舘大学、明治大学、日本大学ら強豪校が大学団体日本一を目指し、凌ぎを削ります。各大学のプライドを懸けた戦い、団体戦ならではの白熱した雰囲気を是非ご覧ください!, BS11が提供する数多くのスポーツコンテンツの中から、オススメ番組を厳選。 コラム、インタビューを通じて皆さんにスポーツの魅力をお伝えいたします。, 「stand up judo」リオ五輪メダリスト羽賀龍之介&山部佳苗、後輩たちへの伝言, 立川桃(東海大学柔道部/愛媛県四国中央市出身)最終回「変化が楽しみな柔道家の未来」, 立川桃(東海大学柔道部/愛媛県四国中央市出身)第3回「勝利の味と相手との駆け引き」.